三嶋の暦物語
皆さんは「暦」をご存知ですか?
現代では主にカレンダーと認識されている、日付・曜日などを容易に確認する印刷媒体のことになりますが
三島には大昔に、三島独自の暦が存在していました。
今回は三島で親しまれた三嶋暦についてお話ししましょう。
当時としてはいくつか特徴的な点があり、仮名文字で刷られた暦としては、日本で最も古いと言われています。
仮名文字にすることによって識字率(文字がどの程度読めるかを示す値)が安定していなかった時代でも、多くの人が日付・曜日を確認することができるようになったと言われています。
今の時代でも、漢字の読み書きに関しては差がありますが
全ての人に読んでもらえるように、という考え方で生まれた暦の仮名文字化は、人々の暮らしの中で、大きな役割を果たす最大の要因になったはずです。
ほかの特徴としては表記自体の美しさでしょうか。
漢字から仮名文字に変えてしまえば、当然のことながら文字数は増えます。紙面の大きさも限界があるので、最低限の文字量と文字の大きさで暦を表す必要性がありました。
故に木版刷りの技術が求められるわけですが
三島での技術は品質がよかったそうで、それらの工夫から生まれた文字模様の表現が、非常に美しいと評判を得る理由にもなったそうです。
今で言うところのカレンダーは、あくまでも工業生産品の域を超えることはありませんが
三島暦は版木印刷に依る手作りの工芸品でもあったので、旅のお土産や贈物としても十二分にその価値を認識されていました。
「時計はオシャレなものがいい」という感覚に近いのかもしれませんね。
「おや、アイツ三嶋暦なんて粋なものを持ってるじゃあないか」とちやほやされていたに違いありませんね。
また、三嶋暦の文字模様と朝鮮半島から渡ってきた陶器の柄が似ていた為、三嶋茶碗というものが確立するきっかけにもなりました。
三嶋暦の、縦方向に日付や付加情報が記され仮名文字を崩した書体と、横方向に向かって日数を追うという表記が、朝鮮半島から渡ってきた陶器の中の模様と近しいものがありました。
陶器では、内側に底の中心から放射線状に広がる崩し文字を感じ取れる模様付けがしてあり
外側もまた同じように、規則的に連続する柄だったのです。
600年の歴史を経て、市内では三島産三嶋茶碗として復元販売されており、抹茶茶碗、湯のみ茶碗、そばちょこ、ぐいのみ他、各種が今なお人々の生活でひっそりと息をしています。
そして最大の特徴としては、織田信長に関わる歴史を大きく変えたという点だと思います。
歴史の教科書には登場することはありませんが、織田信長が明智光秀に討たれたのは「三嶋暦が引き金となった」、と主張する声があるのです。
その真相が知りたい方は是非とも三嶋暦師の館を訪ねてください。暦が生んだ歴史の分水嶺は、ご自身の目と耳で確かめることを推奨します。
男性だけが読むものとされていた暦が、三嶋暦のもたらした改革で女性子供も読めるようになりました。が、もしかしたら今のカレンダーが今のカレンダーたる姿になったのも三嶋暦の功績なのかもしれません。或いはその時期を早めてくれた有難い暦だったのかもしれませんね。